私たちが普段、当たり前のように吸い込んでいる「空気」。この空気の薄い極限状態を数多く経験された登山家の花谷泰広さんに今回はお話を伺いました。「空気」をどのように捉え、その経験は私たちの生活や持続可能な社会にどう関わるのか。「空気」の奥深い世界に迫ります。
神戸の山で育ち、前人未踏の山々へ挑戦する日々を過ごす
私は阪神・淡路大震災までは神戸で育ち、幼い頃から山に親しんでいました。祖父に連れられて六甲山へハイキングに行ったのが、山との最初の出会いでした。進学理由も、全部「山」繋がりでした。高校は当時兵庫県で1番山岳部が強かった神戸高校に入りましたし、大学も山に登りたい一心で信州大学に進みました。
大学の在学中には日本を飛び出し、ヒマラヤやアンデスなど世界の山々に登っていました。海外の山々の中でも、未踏峰など困難な登山ルートに重きを置いていましたので、毎回が命がけの挑戦でした。私たちの世代って、冒険家の植村直己さんに憧れていた世代なんです。いつか自分も「生死が分かれるような世界」に足を踏み入れたいと思っていました。
私にとって登山の一番の醍醐味は「死と隣り合わせの世界にいる」というものです。例えば、クライミングをしている場合は、「落ちるかもしれない」という緊張感が常につきまとっています。何が起こるかわからない自然の中に人間が入れてもらっているのですから。
極限の環境で知る「空気のありがたみ」
登山家として、私は数々の過酷な環境に身を置いてきました。特に標高の高い場所では、「空気」の存在はまさに生死を分ける問題となります。標高5,000メートルに行くと酸素濃度が半分になりますので、普段平地に住んでいる人がポンとその状況に置かれたら、簡単に命を落としてしまいます。
しかし、人間にはすごい適応能力が備わっていて、その環境でも生きていけるものです。こうして少しずつ順応していくので、6,000~7,000mの酸素のより薄い世界に踏み入っても、動けるようになっていきます。だからこそ、如実に「空気」の影響を受けているのを感じています。標高が上がれば上がるほど、酸素が薄くなり、登山の難易度も上がっていきますが、その中でも動かなければならない。その時まさに「空気のありがたみ」を感じていました。
山頂で本当の空の色に出会う
空気の薄い世界を登り詰めて山頂に到達すると、「空の色」が普段とは全く異なることに気づかされました。そこには、「青色」とは全く違う空の色が広がっているんです。雪の反射や太陽の光が複雑に絡み合うことで「空気」の色が変わるからか、ただの青色を通り越すような印象を受けました。宇宙船が大気圏に突入した後に見た「地球」の色に近いものがありますね。
不思議なのは、同じように高いところで見る景色でも、飛行機から見える空の色は、私の見た山頂の景色とは全く違うものだということなんです。私が見た空は、ものすごく深い青でした。自分の足で登り詰めた人だけが体験できる「特別な景色」もあるんだと驚いたことを覚えています。
ただ、「空気のありがたみ」を本当に一番感じるのは、意外にも登山中より「帰ってきてから」です。下山の時は薄かった空気がどんどん濃くなっていき、岩と氷雪しかない世界から、徐々に植物が出てきて森の世界へと変わっていく。人が生存できない世界から、人が生存できる世界に戻っていくのです。
そこで改めて地球の尊さ、空気のありがたみを心の底から感じます。
都市と自然の間に「心地よい空気」を求めて
私は「空気」には、人が生存するために必要な酸素を含めた「物質的な空気」と、雰囲気などの「アトモスフィア」の2つがあると考えています。
本来、人が存在し得ない世界に足を踏み込んだ時に、なぜ死なずにいられるのか。それは「物質的な空気」があるからです。それを私は山で感じていて、それに対してはありがたみしかありません。
またアトモスフィアとして「空気」を考えたときに、より人間が心地よく感じる空間というのは、都市から少し離れたところにあるのではないかと私は思います。
心地よく感じる空間に身を置くと、自身の感性が研ぎ澄まされていく感覚を覚えます。例えば、近所の公園を散歩している時に、急にアイデアが浮かぶことってあるじゃないですか。私の場合は、それが山の中なんです。しかも、良いアイデアが浮かぶのは、大体1人で山の中にいるときが多いです。それは間違いなく、アトモスフィアとしての「空気」の影響が大きいと思います。
だからこそ私は、現代の人が「自分たちの生活と森が直結していない」と強く感じていて、危機感を覚えているのです。つまり、人と自然との距離が離れてしまっているんです。
この距離を近づけるためには、まずは「自然に触れる」ことが重要だと思っています。それは環境を良くしようとか、そういう話ではなく、心地よく人が生きていくためにです。「ここが美しい」「ここが素晴らしい」とみんなが心地よさを感じる空間や場所があるからこそ、世の中には素晴らしいアイデアがどんどん生まれてくる。私たちが日々吸い込む「空気」、そしてそれを育む豊かな自然環境に改めて意識を向けることこそが、「クリエイティビティ」にもつながっているのではないかと考えています。
登山家 花谷泰広公式サイト
https://www.hanatani.net/